努力の証明
最近、思うことがあるのだけれど。
人間って他人の『頑張り』を、『愚痴』や『不平』から感じ取るのかもしれない。

愚痴などを言わずに黙って結果を出す人を見ると、それを「楽々とこなした」という風に判断してしまいがち。
逆に愚痴や不満を口にしながらも、なんとか結果を出している人間を見ると「頑張ってるなぁ」と思うことが多い気がする。

本来、『愚痴』と『頑張り』の間には何の因果関係もないはずなのに。


なので他人から評価されるためには、相手に対して多少の『愚痴』や『不満』を漏らしておくことが重要かもしれない。

もちろん、結果を出すことは前提の話。
結果を出せないと、単に『不平不満の多いヤツ』になってしまいます。
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200810211803
物語における『動機』の必要性
どうにも私は遅筆だ。
でも世の中には週に一本とか二本とかいう速度で脚本を書く脚本家さんとかもいるわけで。
脚本と小説では違う部分もあるけど、物語を作るという部分に置いては同じもののはずだ。そしてその同一性はマンガなどにも共通するものでもある。

で、『登場人物の動機』を考えないで書くと早いんでないかなぁと思う。
特に『悪役』。

悪役がなぜ、そんな行動するのかとか。
主人公達がどうしてその人を助けたり、どうしてそんな言葉を言ったのかという『動機』。

それを考えずに物語を書けば、ぐっと書く速度は上がるんじゃないかと最近とある映画を見て思った。

そもそも『動機』というものは登場人物の行動を決定するものなので、それを全ての登場人物に用意していると各人物の利害が複雑に絡み合って、頭の中がこんがらがってしまいます。
更に『動機』が存在する登場人物が勝手に行動を取ったり、当初予定していた行動が取れなかったりするので物語の中で自由に動かし難い。更には『動機』を成立させなくてはならないので、助長になりがちになる。

大体、『登場人物の動機』なんてものを設定せずに適当に書いても、ぶっちゃけ読者側がある程度勝手に想像してくれる部分がある。
逆に言うと綿密に『動機』を設定しても、読んでいる側にはその半分も伝わらない。

だから『動機』なんて、別に考えて書く必要はないのではないかと思う。
『動機』が存在することと物語としての面白さは必ずしもイコールではない。
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200809071300
マイノリティの差別意識
マジョリティ(多数派)はマイノリティ(少数派)を無自覚に罪の意識も無く踏み付けると言うけどさ。
だからって仕返しにマイノリティが自覚的にマジョリティを蹴りつけるのはどうなの?

無自覚よりも自覚的な方が罪が少ないとでも思っているのだろうか。
私の感覚としては自覚的な分だけ、よりタチが悪いと思うんだよなー。

だって無自覚の場合は無意識的な差別意識を指摘されて考えを改めることもあるけれど(もちろん、多数派であるというだけで自分を正義だと断言してしまえる人間もいるのだけれど)。
自覚的に差別してるってことは、注意されても自分が「マイノリティだから正義がある」と声高く反論してくることは確実なわけで。
罪の意識を持ってマジョリティを蹴り上げているマイノリティが一体どれだけいるものか。
罪を自覚していれば、そうそう相手を踏みつけたり蹴りつけたりしようなんて思わないものじゃないだろうか。

そもそも差別って本当にマジョリティがマイノリティに対してするものなのかね。
マイノリティの人の心中には「これだからマジョリティは・・・」「所詮、マジョリティだから・・・」といった差別意識が存在するのじゃないかと思うのだけど。
流石に差別の意味を拡大し過ぎてるかもしれないけど「差別意識」という意味ではマイノリティだって、マジョリティや、他のマイノリティグループに対して多かれ少なかれ持っているはず。

にも関わらず平気で相手を差別できるのは、それこそ相手を無自覚に罪の意識無く踏み付けているということにはならないだろうか。

マジョリティだって人間だから踏まれたら痛いんですよ?
それともマジョリティはマイノリティに踏み付けられても、それは「仕方が無いこと」と思わなくてはいけないのだろうか。

マイノリティというだけで相手を傷付けていいのなら、それは「少数派」ではなく「特権階級」と形容すべきなのではないだろうか。
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200808212352
なぜアニメは赤松方式を取り入れないの?
板野一郎氏がゲストの回のアニメギガを見る。

自分はどれが「板野サーカス」なのかも分からず、ただただ『マクロスプラス』などを「すげぇ!すげぇ!」と言って観てるような人間なので今回の放送はとても勉強になりました。

カメラワークやレンズ効果、画面の余白の処理など、迫力ある画面を出す方法などを板野さんが詳しくレクチャーしてくれます。
もちろん、どれも概念的には知っていることなんですが、こうして実例を出して説明されるとやっぱり分かりやすさが違いますね。

ただなぁ。
3DCGはなぁ・・・

現在の日本では結局『楽をするための手段』としてしか使われないことが多い気がします。
もちろん、手間と時間と費用を安くする努力は必要でしょうけど。

3DCGでしっかり見せようとした場合、知識とセンスが必要だし、結局時間が必要なことには変わりないので、一体どこまで費用対効果が見込めるのかは疑問。
板野さんの発言も「3Dは2Dより手間が掛からなくて楽」と下に見てる発想からのものなので、どこまで参考になるか。

もちろん、ただ動かすなら3Dの方が楽だろうけど・・・ちゃんと『破損する』という表現をしてくれている3DCGアニメーションはあまり観た覚えがあまりない。
爆発して影も形もなく消滅とか、ただパーツが外れるだけとか、表面に少し汚しをするだけとかの手抜きが多過ぎる。
それは破損表現をするには新しく3Dモデルを作らないといけないので、本来「安くて早く上げるための手段」として3Dが用いられている以上は難しいことなのかもしれないけど。

それに3DCGは書き込みの量やリアル感の表現などに上限がないし、それを極めれば極めるほど2Dとの違和感は強くなる。
またハリウッドっていう先駆者がいるので、どうしても二番煎じになってしまうのがなぁ。

3DCGにあまり力を入れても未来が無いように見えるんですが。

うーむ。

思うんだけど、アニメでは『ネギま!』の作者の赤松健氏のやっている『3DCGのモデルから線画を起こす』って手法は使えないんだろうか。

ロボとかメカとか、その手法を使えば大分手間は省けるし、2D部分との兼ね合いも3Dをそのまま用いるよりしっくりくると思うんだけど。
それにグリグリ動かしたり、破損させたりとかの3Dだけでは難しい表現も、その部分だけ手書きに変えれば良いんだから、かなり良い方法だと思うんだけどなぁ。

やっぱり、何か問題とかあったりするんでしょうか?
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200804022054
「愛国心」教育に対する懸念
まず前提として。
私は日本の教育って「学習意欲を高める」ってことに対しては最高に弩下手だけど、こと「勉強させる」ということに対してはピカイチだと思うんですよ。
自分から何かを勉強しようとは思わないけど、出された課題や問題は的確に片付ける。日本の学生の大多数の特徴だと思います。

そういう意味でこの「愛国心教育」って言うのは、非常に効果を示すと思います。
その根拠となるのは今もやっているかどうか分からないけど、少し前までは確実にやっていた「反戦教育」です。

これは非常に効果を示したように思います。
「武器を持つこと、戦うこと自体が悪」という考え方を浸透させるのに大きな力を持ちました。
これは「反戦教育」が自分から進んで勉強しなければならないことではなく、教育者側が教えることをただ受け止れば良いだけなので非常に容易いからです。

ただ、これには弊害もあるわけで。
本来、物事には「本音と建前」というものがあって、人はそれを使い分けていきていきます。
「武器を持つこと、戦うこと自体が悪」という考え方は「建前」に属することで、公共機関である学校がそれを教えることに問題はありません。

しかし、その「建前」が浸透する過程で、「建前」に反する考え方をする者自体が「悪」であるという考え方まで生んでしまうことがあります。
つまり、この場合は「国は外国の脅威に対抗するために武装をすべきだ」という「本音」の主張する人間を奇異の目で見たり、時には糾弾すらしてしまうのです。
これでは本来進めるべき「本音」の議論すらすることができません。

では、これが「愛国心」となるとどうでしょう?
「愛国心」に対して反対の意見を出す者を奇異の目で見たり、時には糾弾したりする・・・・・・それは非常に大きな問題を孕んでいるのではないでしょうか。

「愛国心を否定する」ということは即ち「日本の国に対して批判的な意見を出す」ということです。
これを否定されてしまうと大変なことになります。

国を良くしようと現在の政治に対して文句を言うことはできなくなりますし、他国による日本に対する攻撃に対しても今以上に過敏になります。

ネットという「本音」をぶちまけることができる場所があるから多少は和らぐとはいえ、このままではリアルでは国を批判するということが出来なくなるのではないか。
それが少し心配です。

過剰な愛国心は人の目を曇らせ、現実から目を背けさせて妄想の世界に飛び立たせます。
本来「愛国心」なんてのは心の中に秘めておくことで、声高に叫ぶべきものではないかと思うのですが。

古い考え方過ぎるでしょうか?
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200803282252
DG氏の脇の甘さが気になる
『動物の権利』の前提条件」でkaien氏が参考にしていたQ&Aを詳しく読んでみる。

動物の権利 FAQ

正直、『動物の権利(アニマル・ライツ)』という言葉を聞いた時、もっと感情的な非論理的なものを想像していたのですが・・・。

これは面白い。
非常に論理的に纏められていて、もし論理という土台でこれらの論と対決しようとするのなら非常に苦戦しそうです。
ぱっと私が思いつく中での反証は「私が奴隷になる可能性はあるが、私が動物になる可能性はないからだ」といった所でしょうか。
もっとも『動物の権利』の論に比べて、人の共感は呼べそうにないところが問題です。動物の権利を主張している人も、この論では納得しないでしょう。
あと「人間と同じ程度の文化・知能を持つ他種族がいたとしたら、それも動物として扱うのか」と言われてしまえば答えに窮してしまいますね。う〜む。


それにしても気になるのはこのQ&Aに出てくる論者の一人、DG(Donald Graft)氏のことです。
よんでいる途中でこの人の言っていることの矛盾が気になってしまって仕方が無かった。

その最たるところが「#18 動物の権利を支持する人達はそんなにも殺すことを気にかけているのにどうしてフルータリアン(果食主義者)にならないのですか?」。

DG氏はこう答えている。

   殺すこと自体は動物の権利哲学の関心の中心ではありません。中心
  になるのは不必要な痛みや苦しみを与えるのを避けることです。

   植物は痛みも苦しみも感じませんので動物の権利哲学としては果食
  主義者(果物は収穫してももとの木を殺すことはないので果物のみを
  食べる)になる必要があるという事は言ってません。


これはQ&A全体の論を破綻させてしまっている。
これでは「苦しまなければ動物を殺してもいい」と言ってしまっているのと同義なのだ。
少なくともこのQ&Aでは「人間に対する道徳を、動物にまで拡大すべき」という論拠のもとに話を進めていたはずだ。

それについては「#21 すでに死んでいる動物を利用する事についてはどう思いますか?」という質疑で顕著だ。
ここでは動物の死体を利用することについて「もし動物ではなく人間の死体だったら道徳的に否定されるはずだ」という根拠のもとに否定している。

その観点に立てば#18についても「人間も苦痛を感じさせなければ殺していいのか」ということになってしまう。
もっと顕著な例を出せば#26で、

   動物の権利を擁護するために実行すべきこ
  ととは、ほとんどエネルギーを要しない性質のものだという点です。私
  達がお願いしているのは、肉を食べないことや動物を娯楽のために利用
  しないことや毛皮を着ないことなどで、すなわち何かをする事ではなく、
  何かをしない事なのです。

  >肉を食べないこと


と言ってしまっている。
明らかに言っていることが違う。

これはどういうことなんかなぁ。本人が気付いていないのか、それとも書いた時期が違って途中で考えが変わったりしたのだろうか。あるいは翻訳のミス?
面白い論理であるだけに、こういう簡単に見付かる矛盾があるのは残念。

というか、#18を読む限り『動物の権利』推進論者の中に肉を食っている人がいるっぽいのが驚きです。
肉を食べている人はどういう論理のもとに食べているのかが気になる。
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200802141557
『動物の権利』の前提条件
『動物の権利(アニマル・ライツ)』という概念を不勉強にも私は知らなかった。
もちろん、近しいことは私も考えたことはある。だけどあまり突っ込んで思考したことはなかったのだ。

動物の権利怖いよ、動物の権利。

どうもkaien氏の最後のネズミの例は、適当ではないように思える。
『動物の権利(アニマル・ライツ)』は「いかなる場合でも動物を苦しめてはいけない」「動物をまったくもって人間と同じ如くに扱え」と言っているのではなく、「人間に動物を苦しめる権利はない(搾取してはならない)」という主張ではないだろうか。少なくとも参考に上がっているQ&Aにさらっと目を通した限りではそう読める。
そうでなければ、動物が自由に餌(つまり他の動物)を取ることを禁止しなければならなくなってしまう。
なぜなら動物には『動物の権利(アニマル・ライツ)』なんぞ理解できないからだ。目の前の獲物を取るのを自重してくれるわけがない。
なので捕食者に殺されかけている動物がいるなら、人がそれを救わなくてはならなくなる。
だが『動物の権利(アニマル・ライツ)』の観念から言えば、人は動物を拘束する権利はないし、その野生としての生活を阻害する権利を持っていないのである。
それを考えれば、殺される動物を人間は助けてはならないという結論になる。

そうなるとこの場合、ネズミが食料を求めたとしても人間に自分の物資を与える義務はない。
ネズミが腹を空かせているのは彼等の勝手な都合であり、人間が搾取した結果ではないのだからだ。


(追記)
件のQ&Aでは「#20 家が火事になり中には犬と赤ん坊が取り残されたとします。あなたはどちらを先に助けますか?」も参考になると思う。

(追記2)
Something Orangeへのトラックバックが弾かれる。
どうも、ウチのブログがアダルト設定なのでフィルタにひっかかるっぽい。


▽当ブログの関連記事▽
DG氏の脇の甘さが気になる
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200802141217
バカキャラとアホの子の紙一重の違い
「バカキャラ」「天然」「アホの子」「ドジっ子」の違いなんて深く考えたことが無かったなぁ。

アホの子と天然の子の境界漫画読もうぜ日本視覚文化研究会

そんなわけでSoichi Inosakiさんがしているのは「アホの子と天然の違い」についての話ですが、私は「アホの子」と「バカキャラ」の違いについて考えてみたいと思います。

とりあえず具体的にどう違うのかを考える前に、私がどういったキャラを「アホの子」と「バカキャラ」に分類するのかを上げてみたいと思います。
この前提条件に共通認識がないと、噛みあう話も噛み合わないと思いますし……あと行数も稼げゲフンゲフン

・アホの子
大阪(あずまんが大王)、(アニメ版の)柊つかさ(らき☆すた

・バカキャラ
とも(あずまんが大王)、片桐姫子(ぱにぽに)、松岡美羽(苺ましまろ

・・・ええと、なんかここまで書いて一つ分かったことがあります。
どうやら私はバカキャラが好きなようです。
自分でも驚きの事実ですが、さっきから脳内センサーにバカキャラばっかり引っ掛かって、アホの子が全く引っ掛かりません。

分類については私の個人的主観が多々入ってますので異論もあると思いますが、肝心なのはどうして私がこういう分類の仕方をしたか・・・アホの子とバカキャラをどうやって分けたかです。


バカキャラに共通するのは「無闇にテンションが高い」という部分もありますが、それ以上に重要になるのはそのキャラクターが行なった行動に対する読者側のリアクションなのではないでしょうか。

アホの子もバカキャラも常人が思いつかないような突飛な行動をするという点に置いては同一であると考えられます。
ただ、その行動を前にした時に、作中の他のキャラや読者の反応に明確な違いがあります。

ようするに・・・

・アホの子
「もぉ、この子はアホだなぁ〜」(許容)

・バカキャラ
「うわぁ、こいつバカだ・・・」(引き)

という違いなのではないでしょうか。
いざそのキャラの常識外れの行動を前にした時に、それを許容できるか否か境界線になっているのだと思います。

そういう風に考えると「あずまんが大王」のとも、とか「苺ましまろ」の美羽のような、その行動によって誰かが実害を喰らうようなのは確実にバカキャラに分類されるでしょう。


■結論
その行動やテンションの高さを許容できず見ていて引いてしまうのが「バカキャラ」。
その行動や言動にほわ〜と癒されてしまうのが「アホの子」。
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200711251904
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